1 :名無氏物語:2011/05/11(水) 05:59:26.23 ID:DtC9fMsg
漢文は、「訓読」とよばれる伝統的な翻訳法をもってまず古語の日本語に訳され、
その訳文(書き下し文)を日本語の現代語に移しかえることで読解されている。
たとえば「子曰、学而時習之、不亦説乎」という文は「し いわく、まなびて ときに これを ならう また よろこばしからずや」と訳し、
ついでそれを「孔子はいった 学んで時々それを復習する、それはよろばしいことではないかと」のように訳する。
いわば中国語→日本語(古語)→日本語(現代語)という二重の翻訳を行っている。
現代の日本人にとって、訓読の技術を身につけるには学習を必要とするが、
この書き下し文の意味をくみとるのにもまた学習を必要とする。二重の負担だ。
もし古語を介せず、はじめから中国語から日本語(現代語)への翻訳法があれば、その負担は解消されるのではないか。
さあ語れ。

50 :名無氏物語:2011/07/21(木) 11:30:04.68 ID:OCb/5v92
口語的訓読体というもうひとつの中間言語が生まれるだけ。
理解するにはそこからさらに解釈を必要とする。
二重の翻訳であることに変わりはない。

むしろ深刻な文語離れを食い止めることの方が有意義。
明治大正の詩文や論説文など、漢文訓読体に基づく文語表現には
豊富なテクストの蓄積があり、今も再生産可能なのだ。
これを省みず存在すら忘れるから>>1のような発想が生れる。
古典に連なる伝統の連続性を無視するなど本末転倒。

2 :名無氏物語:2011/05/11(水) 12:33:49.13 ID:AALLUz8q
読みくだしが長くならない?

続きを読む